2018年9月28日金曜日

只々楽しむのみ

 毎年、同じ百日紅を見ている。10月に入り、台風に襲われると、散ってしまう。今年はそれが上旬になるのか、中旬になるのか。
 白い花を付ける。風雨に散ると、光るアスファルトに雪が舞うようだ。
今年の花は、いつ散るか。
 毎年、この花が散った頃に、猛烈に忙しくなった。週末もなく資料を作り、出張に出た。昨年はちょっと違って、まったくカルチャーが合わぬ会社で大役が回ってきて、手こずった。その大役は今月末で放り出したので、花が散るのを、じっと見ていられる身分となった。もう、振り返らない。只々楽しむのみ、だ。

 今日が、仕事の最終日だった。帰り道の路地で、申し合わせたように、金木犀がいっせいに香りを放ち始めた。

2018年9月23日日曜日

中村梨々 詩集「青挿し」 オオカミ編集室

自然がある。静かな暮らしがある。そして、詩がある。
中村梨々さんの作品は、等身大の温もりと、移りゆく四季や草木や身の回りのものを、一点に映し出す、さりげない魔法に満ちている。余韻が、作品の世界がその先も続いているように響く。ぼくは、中村さんの作品の余韻が好きだ。

詩集「青挿し」は、島根の詩人、中村梨々さんの、「たくさんの窓から手を振る」に続く詩集だ。冒頭の「二月の空は呆れるほど高い」を繰り返し読んで、散文詩の心地よいゆらぎ感を何度も味わう。この作品は、日本詩人クラブの第一回「新しい詩の声」最優秀賞を受賞している。
詩が、春の夜や、雨や、街の古びた駅のなかを、しなやかに飛躍する「春帰行」。
そして、ちょっと怖い「二十三夜」。一人で過ごす夜の感覚は、そうそう、こんな感じ。

「たくさんの窓から手を振る」の作品に見られた葛藤の影は遠のき、不安と悟りが入り混じった境地にいるようにも思える。
今、不安と書いたが、それは作者にとって、新たな表現への挑戦なのかもしれない。「詩客SHIKAKU」で、作者の近作、「サーマルヘッド 自由さと位置」や「サーマルヘッド 沈黙と景色」を読むことができる。

注目したいのは、詩集の中に、中村さんの短歌が散りばめられていることだ。
短歌は一行で構成されるので、音韻律以上のリズムや余韻を求めるのが難しく、言葉の飛躍や省略によっていかに想像や叙情を喚起できるかが勝負となる。その一行の中に、死生観や美学が圧縮されていることも多い。詩人・中村梨々の、短歌へのアプローチを鑑賞しよう。

 いつまでも明けない夜は魂のこぼれたほうへつながっていく

魂のこぼれたほう、とは、作者にとっては詩を意味するのではないだろうか。
そして、

 先生が水を汲む器は今も風の吹く野に置いてあります

水を汲む、は生前の思い出、器は、死者が残していった大切なもの、風の吹く野は、作者の心。そうすると、先生は、もしかしたら、作者の父を指しているのかもしれない。




2018年5月6日日曜日

萩原慎一郎 歌集「滑走路」


きみのため用意されたる滑走路きみは翼を手にすればいい

 「きみ」とは誰なのだろう。どこに飛び立ってしまうのだろうか。一見、旅立ちの希望のように読める作品だが、滑走路は自分のためには用意されていない。きみとの別れを意識しているのかもしれない。自分は取り残される側であるという前提に立っているのかもしれない。

非正規の友よ、負けるな ぼくはただ書類の整理ばかりしている
シュレッダーのごみ捨てにゆく シュレッダーのごみは誰かが捨てねばならず

 雇用される側、というテーマが繰り返し現れる。基調にあるのは、閉塞感と孤立、見えない将来。経済学に窮乏化法則、というのがあったな、と思う。
 クラスタに分断された時代なのだから共感を呼ぶ。昨年暮れ、歌集が出た時に、版元が大きな新聞広告を出したのを覚えている。新聞の書評でも取り上げられたらしい。

蒼き旗振り廻すかのように歌 僕の叫びを発信したり

 短歌の役割が、その時代に生きる人々の心情や感性を表すことであるならば、立派に役割を果たしてくれている、と言えそうだ。口語で短歌が作れるようになって本当に良かった、とも思う。

 短歌を読む人は、大概は詠む人でもある。読んでもらおうと作り出される短歌は、詠み手を唸らそうとするものになりやすい。「滑走路」の作品は、そういう短歌とは明らかに違う。(全体の三分の二ぐらいは直球勝負で伝えようとしていて、表現の機智に至っていない、と言えば、それまでだよ。そうなる前に亡くなってしまったのだから。)
 歌人ではない人達に読んで欲しいな。叫びを叫びとして聞こうとする人たちに。

こころのなかにある跳び箱を少年の日のように助走して超えてゆけ

(引用した短歌作品は、歌集「滑走路」萩原慎一郎 (株)KADOKAWA 2017年からです。)

2017年12月31日日曜日

通過してゆく ー 2017年自選59首

I 季節風


春風が今日の始発の改札をくぐりましたと気象予報士

出社するサラリーマンは戸惑ってチューリップの花束を買う

終バスも去った団地の街灯に鬼まかり通り花冷えの夜

ひとり ひとり 名を呼びながら桜降るネガフィルムを燃やしていった




永遠に続く音楽などなくて梅雨入りの日の原価計算

郵便配達ではないな 雨音に足音まじる病欠の午後

雨おとの骨董市で語りつぐノッテイングハムのまやかしの薔薇

向日葵の束をかかえて地下鉄に乗る人がいる梅雨があけた日




本箱で窓がかくされその裏は校庭らしい二年めの夏

書きおえたあともしばらく鳥達は詩の形して夏空にいた

早逝の幼馴染が夢にきて見知らぬ祭りに誘おうとする

浅夢にうすだいだいをただよわせ浴衣ほのかに西瓜の匂い




びいどろのような暮らしが初秋にながれてひとり縦笛をふく

コンビニのこわれたドアが直されぬ街で夕陽を数えつづけて

なにひとつ残さず消えてゆく秋にワイングラスのアンカーを打つ

晩秋の銀杏並木の輝きへゆっくりのぼる地下鉄出口




冬にゆく電車の中に老人の仮面をつけて座る人々

引き返す可能性ある千歳行き最終便がゲートはなれる

冬空を支えきれずに電圧が流れ去るまま立ちすくむ塔

あしおとが梢の黒くさししめす方にとおのき たましいの冬




II 過ごした日々


終着駅ばかりの街で舶来の新聞を売り暮らしているのさ

改札で軽くSuicaをタッチしてつぶしてしまう日々の凹

世を避ける言葉はうまくなったけど空気に少し朱色がまざった

最上階の数字を越えて上がり続ける ぼくのせいではない




自転車で歩道をふさぎ立ち去れる人こそ勝者と書店に平積み

コンビニに棄てられている生ごみのメイクアメリカグレイトアゲーン

伝説は作られるのだと空を舞い星を無理やりつなぎはじめた

Mind the gap 不況が来るぞ Mind the gap 煤けた壁に駅の怪人




百年後、キラキラネームのおばあちゃん溢れる舞浜がありますように

デコポンが旬になったら好きなだけ食べて死ぬほど贅沢させて

怒りっぽくなりましたか?レントゲン画像に硬くしぼんだ胡桃

首都高の霧のカーブの助手席でもっと飛ばせと叫ぶ老人




誰一人返事しない昼ふりむくとセイタカアワダチソウの絶滅

あの部屋は四季がないんだ見るたびに肥大してゆく観葉植物

文房具売場が悲しい  ってやはり変かな 空白のページしかない

ここだよね めちゃくちゃ楽しかったよね 花束置いて立ち去った人

ラジカセを持って踊ろう薄明の砂浜にえがく1987




III 空ゆく船



空にもうたどり着けない朽ちはてたエスカレータに足のせたまま

帰ったあとご飯も食べず、まっくらな部屋から川を見ていた

困惑しているのだ  空が鮮緑の毛細血管に侵されてゆく

明け方に出発ロビーにいる 自分2.0へのアップグレード

書くほどの掟はなくて僕達はスマホかざして風に乗りこむ

今ちょうど離陸時刻か 玄関で夕陽を浴びてゆれるコスモス

秋空を上昇します駆けめぐる羊の群れにご注意ください

鳥達の死を無駄にはしないよ 微弱電波とらえた無線機




VI 鉄道事変


冷えきった家でみかんを剥いている きっと乗り遅れたのだろう

持ってきた蜜柑も腐ってしまって 中央線に夕陽まぶしく

ホームからお客様が転落し二日おくれる世界のおわり

この世界の車掌はぼくだ ひしめきあう人のうしろで為すすべもなく




VI 年の終わりに


夕刊に秒針が降りつもるほど静かな朔に星を奏でて

深夜まで朝刊を置くコンビニで一日遅れて世の息をつく

帰宅する歩数をむらさきのペンで手帳に書きつらねていた 

残量が10パーセントで伝えきり僅かに再起動される息



北山の方からしぐれて面影は大路をさがり格子戸にきえて

たましいは空に満ちたか氷はる朝に比叡のいただき白く

みぞおちの白磁のように定まってとてもながく息をはきだす




全電源喪失した宇宙船できみが見つめる透明な薔薇

残り者どうしで並び星空を見上げて、あれがペットボトル座

夕風が木々の信号を変えたなら十一月の急行でゆけ



「かばん」2017年1月号〜12月号、「うたつかい」2017年春号、「みずつき」第6号に発表

2017年12月21日木曜日

谷岡亜紀歌集「闇市」

(シーン1)
 夕月は避雷針の上に昇りたり大恐慌の前の東京
 女らが茸のごとく立つ駅を過ぎて恐怖の待つ街へ来つ
 「俺は・・・俺は・・・」おれは今夜もポストなり赤く塗られてただ口あけて

幻視ではない。これは耳をふさいで駅の雑踏を通り過ぎる者にとって、実景だ。なすすべもなく繋がっていなければならない日々という現実は、この作品そのものではないか。

(シーン2)
 歳月を押し流しゆく朝焼けの西頁川の橋の上の犬
                        (西頁 サイゴン)
戦争のあとの街で、歪んで染みた天井のある宿で、路地の人々にまぎれて安らぐ。政治や社会批評ではなく、悲劇の残像を追い、隙間に落ちたものにシンクロするための土地をもとめる。喪失を確認するための旅がつづく。

 エア・メール三通出してそののちは暑く眠たい中華街の夏
 めまいして仰げばいまだこの空に落下の形とどめいる人

二首目「めまいして、、」で作者は、9・11テロの跡に立っている。目眩を感じたのは、幻視の前。たしかに悲劇があった場所では、目眩がしたあと、その場面がフィルムのように再現されるような気がする。「形とどめいる」が、惨劇の記憶が残っていることと、人の形が空に貼り付いている幻視とを重ね合わせる。

 この世とはあるいは大きな駅ならん最終電車を灯の下に待つ

この世は駅、どこかに向かうための駅。でも、その駅を出発する列車はどこに向かうのだろうか。
きっと外国の駅なんだ。外国の駅はたいがい、不自然に大きいので。

(シーン3)
連作「歌舞伎CITY」。連作の始めに灯ったネオンが、明け方になってもまだ残っている。

 半世紀どこさまよいていし人か復員兵のごとく歩み来
 行方なく行けば箱庭療法のごとき街なり傘に溢れて
 歩めるは哈爾賓帰りの女らか影揺らぎつつ我を過ぎゆく

街に暴力があるのではなく、街が暴力そのものなのだ。50年たってもまだ、戦争から戻ったばかりの男や、満州から引き上げてきたとひと目で分かる女がいる街なのだ。

世界のどこかに、歩き疲れた自分が取り残されている。その自分が読んでいるのはきっと、この歌集だろう。また旅に出たくなった。


=引用歌はすべて、谷岡亜紀歌集「闇市」雁書館 2006年 からです。

2017年11月23日木曜日

歌集・それはとても速くて永い 法橋ひらく

 いつの間に、こんなに率直に気持ちを表現できるものになったんだろう、、、短歌の変わりように、ぼくは迂闊にも三十年も気が付かなかった。二年前、そんなショックを受けて買った若い歌人の歌集が二冊ある。その一冊が法橋ひらく『それはとても速くて永い』だった。ずいぶん歳の違う作者なのに、作品は読んで懐かしい気がした。(ちなみに、その時買ったもう一冊は、藤本玲未「オーロラのお針子」だった)

 閉塞感、疎外感、一言で言えばそんなところなのだろう。現実に生きているような気がしない。その真っ只中にいた頃の気持ちを、法橋ひらくの作品は言い当ていると思った。『それはとても速くて永い』は、「現代の若者」が「失われた二十年」で打ちひしがれて生まれた歌集ではない。生きにくいのは「生」の本質であり永遠の矛盾だ、と示してくれる歌集なのだ。

 『それはとても速くて永い』法橋ひらく第一歌集批評会が2018年1月27日(土)に開催されるのを期に、歌集から十首、鑑賞を記した。

  どれだけ覚えておけるんやろう真夜中の砂丘を駆けて花火を上げた
 
 忘れてしまうことへの不安を冒頭に掲げるこの作品で『それはとても速くて永い』は始まる。花火は記憶の目印になるような過去の何かだと思う。真夜中の砂丘の闇と、花火。駆けていたのは作者の心の中に流れる時なのだろう。歌集の最初が時間や追憶の一首であること、大阪言葉であることが注目される。作者の記憶は大阪言葉でできているはずだから。

  交わっていつかほどけていく日々が交わったんだ ほどけても、なお

 別れと、とても淡い再会があったのか。別れたあとも想いは残っていたから再会に気づくことができた。でも、そう気づいたのは会った後。

  サボテンに水をあたえる 寂しさに他の呼び名をふたつあたえる

感情があるようには見えないサボテンに名前を付けて育てる人。寂しくなるとサボテンに名をつける。また、つける。さらに、つける。その名前は誰の名前?

  夜という毛布の下で(青いのは戦火だろうか)やがて砂嵐

 仕事で帰りが遅くなり、テレビニュースを観ながら疲れてうとうととしているのか。遠い戦争と、自分自身の昼間の喧騒の間に夜が横たわる。

  自閉する日々にも秋の降るように惑星は優しく地軸を傾ぐ

 惑星を、ほし、と読ませている。我々が住む惑星だろう。四季は地軸の傾きで生じる。季節は地球の頷きなのだ。法橋ひらくの短歌は、その星の四季を、宇宙のどこか別の場所に膝を抱えて座って見つめているような味わいがある。

  信号はことごとく青なにもかも奇跡みたいな夜だ かなしい

 四句目までは分かる。ではなぜ唐突に、かなしいのか。奇跡のような夜を迎えて自分だけが奇跡ではないこと?でも、この結句は、かなしい、以外の感情は当てはまらない。

  性嫌悪癒せないまま三十歳を迎えた朝のストロベリージャム

 三十歳は、ここでは、さんじゅう、と読む。癒せないまま、に引っかかりがある。コンプレックスなのか。確かにストロベリージャムにセクシー感はないけど。

  流されて吹き寄せられて川をゆく花びらみたい 手を振るから

 花びらは誰だろう。手を降っているのは、誰に?美しく楽しげな作品。でも、この川はきっと、現実ではない。

  風に舞うレジ袋たちこの先を僕は上手に生きられますか

 風に飛ばされたレジ袋は、そう言えばどこに行ってしまうのだろうか。上句で作られたイメージが下句の問いかけを際立たせている。こう問いかける気持ちは、時代背景だけが作るものではないと思う。

  黄金の羊を抱いて会いにゆくそれからのことは考えてない

 「それはとても速くて永い」の結びの一首。黄金の羊は象徴的だけれど、富とか成功ではなく、とても大切にしている自己のイメージでは。会いにゆく、は、幻想しているのだろう。それからのことは考えていない、ので、現実とはまだ結びついていない。
 実は、法橋ひらくの作品には、黄金や花火、お祭り、というモチーフが度々、登場する。人生の時間が過ぎるに従ってモチーフがどう進化するか、今後の作品にさらに期待したい。

(作品は『それはとても速くて永い』法橋ひらく 書肆侃侃房 2015年 から引用しました。)

『それはとても速くて永い』法橋ひらく第一歌集批評会 申し込みページから、あなたの推し歌が送れます。
             http://soretote.wixsite.com/soretote

2017年11月1日水曜日

歌集「オワーズから始まった。」白井 健康 を読む

  三百頭のけもののにおいが溶けだして雨は静かに南瓜を洗う  「たましいひとつ」

 歌集の最初であらかじめ作者が向き合っている現実が明らかにされているので、読者は、この夥しい数のけものが口蹄疫の防疫の殺処分となった家畜と、容易に想像できる。その現実と、南瓜畑に降る雨はたぶん、繋がりを持たない。作者はただ、静かな雨の中に立っている。すると、彼の感性が殺処分された家畜の気配を受信するのだ。

  この森が深く大きく息を吐き六百頭の牛が溺れる        「まだ動いてる」

 動物の命を助ける職業にある作者が殺処分という仕事をせざるを得なくなる、という、重たい現実。だから「たましいひとつ」三十首にはじまるこの歌集の第一部は挽歌なのだろうけれど、それはとても静かな挽歌だ。静寂はどこから来るのか。

  二十一ナノメートルのウイルスの螺旋のなかのオワーズのひかり「たましいひとつ」

 オワーズは口蹄疫ウイルスが発見された町の名。螺旋はDNAだろう。だから確かにこのウイルスのDNAにはフランスの町の光景が刻まれているかもしれない。動物の疫病の悲惨さを逆照射する意図もあるかもしれない。だが大切なのは、作者はここでも、現実とは意味の繋がりを持たない、詩人だけに見える光、詩人だけに聴こえる音を感じ、それを表現しようとしていることだ。

 歌集の第二部以降は、結社誌に発表された作品群。言葉の自由な飛躍が楽しい。

  臨床は海の揺らぎと思うとき離島の数だけ問診をする        「苺が匂う」

 現実はミュートされ、詩の調べだけが聴こえる。詩人は喧騒の中で一人だけ違う音を聴きながら、立っている。作品を作る。だから上質な詩は、しんとしていて、現実を中和する作用がある。これが詩の存在意義だと思う。詩があるから現実の中で生きていられる、それを詩人と言う。「オワーズから始まった。」は、詩がその役割を十分に果たした歌集だ。

「オワーズから始まった。」白井 健康 書肆侃々房 2017年