(シーン1)
夕月は避雷針の上に昇りたり大恐慌の前の東京
女らが茸のごとく立つ駅を過ぎて恐怖の待つ街へ来つ
「俺は・・・俺は・・・」おれは今夜もポストなり赤く塗られてただ口あけて
幻視ではない。これは耳をふさいで駅の雑踏を通り過ぎる者にとって、実景だ。なすすべもなく繋がっていなければならない日々という現実は、この作品そのものではないか。
(シーン2)
歳月を押し流しゆく朝焼けの西頁川の橋の上の犬
(西頁 サイゴン)
戦争のあとの街で、歪んで染みた天井のある宿で、路地の人々にまぎれて安らぐ。政治や社会批評ではなく、悲劇の残像を追い、隙間に落ちたものにシンクロするための土地をもとめる。喪失を確認するための旅がつづく。
エア・メール三通出してそののちは暑く眠たい中華街の夏
めまいして仰げばいまだこの空に落下の形とどめいる人
二首目「めまいして、、」で作者は、9・11テロの跡に立っている。目眩を感じたのは、幻視の前。たしかに悲劇があった場所では、目眩がしたあと、その場面がフィルムのように再現されるような気がする。「形とどめいる」が、惨劇の記憶が残っていることと、人の形が空に貼り付いている幻視とを重ね合わせる。
この世とはあるいは大きな駅ならん最終電車を灯の下に待つ
この世は駅、どこかに向かうための駅。でも、その駅を出発する列車はどこに向かうのだろうか。
きっと外国の駅なんだ。外国の駅はたいがい、不自然に大きいので。
(シーン3)
連作「歌舞伎CITY」。連作の始めに灯ったネオンが、明け方になってもまだ残っている。
半世紀どこさまよいていし人か復員兵のごとく歩み来
行方なく行けば箱庭療法のごとき街なり傘に溢れて
歩めるは哈爾賓帰りの女らか影揺らぎつつ我を過ぎゆく
街に暴力があるのではなく、街が暴力そのものなのだ。50年たってもまだ、戦争から戻ったばかりの男や、満州から引き上げてきたとひと目で分かる女がいる街なのだ。
世界のどこかに、歩き疲れた自分が取り残されている。その自分が読んでいるのはきっと、この歌集だろう。また旅に出たくなった。
=引用歌はすべて、谷岡亜紀歌集「闇市」雁書館 2006年 からです。