2017年11月23日木曜日

歌集・それはとても速くて永い 法橋ひらく

 いつの間に、こんなに率直に気持ちを表現できるものになったんだろう、、、短歌の変わりように、ぼくは迂闊にも三十年も気が付かなかった。二年前、そんなショックを受けて買った若い歌人の歌集が二冊ある。その一冊が法橋ひらく『それはとても速くて永い』だった。ずいぶん歳の違う作者なのに、作品は読んで懐かしい気がした。(ちなみに、その時買ったもう一冊は、藤本玲未「オーロラのお針子」だった)

 閉塞感、疎外感、一言で言えばそんなところなのだろう。現実に生きているような気がしない。その真っ只中にいた頃の気持ちを、法橋ひらくの作品は言い当ていると思った。『それはとても速くて永い』は、「現代の若者」が「失われた二十年」で打ちひしがれて生まれた歌集ではない。生きにくいのは「生」の本質であり永遠の矛盾だ、と示してくれる歌集なのだ。

 『それはとても速くて永い』法橋ひらく第一歌集批評会が2018年1月27日(土)に開催されるのを期に、歌集から十首、鑑賞を記した。

  どれだけ覚えておけるんやろう真夜中の砂丘を駆けて花火を上げた
 
 忘れてしまうことへの不安を冒頭に掲げるこの作品で『それはとても速くて永い』は始まる。花火は記憶の目印になるような過去の何かだと思う。真夜中の砂丘の闇と、花火。駆けていたのは作者の心の中に流れる時なのだろう。歌集の最初が時間や追憶の一首であること、大阪言葉であることが注目される。作者の記憶は大阪言葉でできているはずだから。

  交わっていつかほどけていく日々が交わったんだ ほどけても、なお

 別れと、とても淡い再会があったのか。別れたあとも想いは残っていたから再会に気づくことができた。でも、そう気づいたのは会った後。

  サボテンに水をあたえる 寂しさに他の呼び名をふたつあたえる

感情があるようには見えないサボテンに名前を付けて育てる人。寂しくなるとサボテンに名をつける。また、つける。さらに、つける。その名前は誰の名前?

  夜という毛布の下で(青いのは戦火だろうか)やがて砂嵐

 仕事で帰りが遅くなり、テレビニュースを観ながら疲れてうとうととしているのか。遠い戦争と、自分自身の昼間の喧騒の間に夜が横たわる。

  自閉する日々にも秋の降るように惑星は優しく地軸を傾ぐ

 惑星を、ほし、と読ませている。我々が住む惑星だろう。四季は地軸の傾きで生じる。季節は地球の頷きなのだ。法橋ひらくの短歌は、その星の四季を、宇宙のどこか別の場所に膝を抱えて座って見つめているような味わいがある。

  信号はことごとく青なにもかも奇跡みたいな夜だ かなしい

 四句目までは分かる。ではなぜ唐突に、かなしいのか。奇跡のような夜を迎えて自分だけが奇跡ではないこと?でも、この結句は、かなしい、以外の感情は当てはまらない。

  性嫌悪癒せないまま三十歳を迎えた朝のストロベリージャム

 三十歳は、ここでは、さんじゅう、と読む。癒せないまま、に引っかかりがある。コンプレックスなのか。確かにストロベリージャムにセクシー感はないけど。

  流されて吹き寄せられて川をゆく花びらみたい 手を振るから

 花びらは誰だろう。手を降っているのは、誰に?美しく楽しげな作品。でも、この川はきっと、現実ではない。

  風に舞うレジ袋たちこの先を僕は上手に生きられますか

 風に飛ばされたレジ袋は、そう言えばどこに行ってしまうのだろうか。上句で作られたイメージが下句の問いかけを際立たせている。こう問いかける気持ちは、時代背景だけが作るものではないと思う。

  黄金の羊を抱いて会いにゆくそれからのことは考えてない

 「それはとても速くて永い」の結びの一首。黄金の羊は象徴的だけれど、富とか成功ではなく、とても大切にしている自己のイメージでは。会いにゆく、は、幻想しているのだろう。それからのことは考えていない、ので、現実とはまだ結びついていない。
 実は、法橋ひらくの作品には、黄金や花火、お祭り、というモチーフが度々、登場する。人生の時間が過ぎるに従ってモチーフがどう進化するか、今後の作品にさらに期待したい。

(作品は『それはとても速くて永い』法橋ひらく 書肆侃侃房 2015年 から引用しました。)

『それはとても速くて永い』法橋ひらく第一歌集批評会 申し込みページから、あなたの推し歌が送れます。
             http://soretote.wixsite.com/soretote

2017年11月1日水曜日

歌集「オワーズから始まった。」白井 健康 を読む

  三百頭のけもののにおいが溶けだして雨は静かに南瓜を洗う  「たましいひとつ」

 歌集の最初であらかじめ作者が向き合っている現実が明らかにされているので、読者は、この夥しい数のけものが口蹄疫の防疫の殺処分となった家畜と、容易に想像できる。その現実と、南瓜畑に降る雨はたぶん、繋がりを持たない。作者はただ、静かな雨の中に立っている。すると、彼の感性が殺処分された家畜の気配を受信するのだ。

  この森が深く大きく息を吐き六百頭の牛が溺れる        「まだ動いてる」

 動物の命を助ける職業にある作者が殺処分という仕事をせざるを得なくなる、という、重たい現実。だから「たましいひとつ」三十首にはじまるこの歌集の第一部は挽歌なのだろうけれど、それはとても静かな挽歌だ。静寂はどこから来るのか。

  二十一ナノメートルのウイルスの螺旋のなかのオワーズのひかり「たましいひとつ」

 オワーズは口蹄疫ウイルスが発見された町の名。螺旋はDNAだろう。だから確かにこのウイルスのDNAにはフランスの町の光景が刻まれているかもしれない。動物の疫病の悲惨さを逆照射する意図もあるかもしれない。だが大切なのは、作者はここでも、現実とは意味の繋がりを持たない、詩人だけに見える光、詩人だけに聴こえる音を感じ、それを表現しようとしていることだ。

 歌集の第二部以降は、結社誌に発表された作品群。言葉の自由な飛躍が楽しい。

  臨床は海の揺らぎと思うとき離島の数だけ問診をする        「苺が匂う」

 現実はミュートされ、詩の調べだけが聴こえる。詩人は喧騒の中で一人だけ違う音を聴きながら、立っている。作品を作る。だから上質な詩は、しんとしていて、現実を中和する作用がある。これが詩の存在意義だと思う。詩があるから現実の中で生きていられる、それを詩人と言う。「オワーズから始まった。」は、詩がその役割を十分に果たした歌集だ。

「オワーズから始まった。」白井 健康 書肆侃々房 2017年