三百頭のけもののにおいが溶けだして雨は静かに南瓜を洗う 「たましいひとつ」
歌集の最初であらかじめ作者が向き合っている現実が明らかにされているので、読者は、この夥しい数のけものが口蹄疫の防疫の殺処分となった家畜と、容易に想像できる。その現実と、南瓜畑に降る雨はたぶん、繋がりを持たない。作者はただ、静かな雨の中に立っている。すると、彼の感性が殺処分された家畜の気配を受信するのだ。
この森が深く大きく息を吐き六百頭の牛が溺れる 「まだ動いてる」
動物の命を助ける職業にある作者が殺処分という仕事をせざるを得なくなる、という、重たい現実。だから「たましいひとつ」三十首にはじまるこの歌集の第一部は挽歌なのだろうけれど、それはとても静かな挽歌だ。静寂はどこから来るのか。
二十一ナノメートルのウイルスの螺旋のなかのオワーズのひかり「たましいひとつ」
オワーズは口蹄疫ウイルスが発見された町の名。螺旋はDNAだろう。だから確かにこのウイルスのDNAにはフランスの町の光景が刻まれているかもしれない。動物の疫病の悲惨さを逆照射する意図もあるかもしれない。だが大切なのは、作者はここでも、現実とは意味の繋がりを持たない、詩人だけに見える光、詩人だけに聴こえる音を感じ、それを表現しようとしていることだ。
歌集の第二部以降は、結社誌に発表された作品群。言葉の自由な飛躍が楽しい。
臨床は海の揺らぎと思うとき離島の数だけ問診をする 「苺が匂う」
現実はミュートされ、詩の調べだけが聴こえる。詩人は喧騒の中で一人だけ違う音を聴きながら、立っている。作品を作る。だから上質な詩は、しんとしていて、現実を中和する作用がある。これが詩の存在意義だと思う。詩があるから現実の中で生きていられる、それを詩人と言う。「オワーズから始まった。」は、詩がその役割を十分に果たした歌集だ。
「オワーズから始まった。」白井 健康 書肆侃々房 2017年