2018年11月30日金曜日

歌集『水中翼船炎上中』穂村弘

 短歌を文語で作っていた時代は、文語が表現を引き締め、感動にアクセントを付けていた。日常語(口語)の短歌が当たり前になると、詩に日常語の平坦さを乗り越えさせるために、表現を飛躍させて読者の想像力をかきたてるようになった。「驚異」のような詩的飛躍 ーー これが、現代の短歌について語る時に、定説のように持ち出される。穂村弘は「驚異」の代表歌人のように思われていないか。短歌の表現法について「驚異」という言葉を使ったのが穂村弘だから、間違いではないのだろう。
 でも、表現の飛躍は必ずしも意図的なものではないように思う。日常語で心の中を、あるいは見えている光景を、そう感じているように、見えているように表現しようとすると、どうしても使わねばならない言葉がある。しかも、感じたり見えたりしているのは、有りたきりの感情や光景ではない。自分にとって異常事態だったりしたら、それを表現する言葉も飛躍したものになるだろう。

 子供の頃、病気で寝ていると、天井板の節目の模様が妖怪の目や深海魚に見えてきて、それが次第に動き出すような感覚に襲われた。もしもその時、その感覚を詩や短歌で表現することができたなら、言葉の驚異に溢れたものになっただろう。
 大人になるにつれて感覚は摩耗しくたびれて、妖怪の目や深海魚は見えなくなった。言葉も世の常識や仕事の必要に慣らされて硬直し、定食料理のような表現しかできなくなった。

 穂村弘の17年ぶりの歌集『水中翼船炎上中』は、40代から50代にかけての作品の集大成だ。子供時代から現在に至るまでの回想を短歌にしたようにも読める歌集だが、アラ還と呼ばれる歳になっても、子供の頃の記憶、同じ感覚、そして言葉の飛躍を失わない作品群に、まさに驚異するべきだろう。回想がモチーフとなっている作品も過去形で描かれていない。読みとれる世界には、普段見ているのと違うぞ、という違和感がある。現実への違和感を持ったまま大人になり、違和感を表現できる言葉とともに還暦を迎えようとしている人なのだ。

 ただ一つ違うのは、世界の輝き方かもしれない。かつては、世界を輝かせるのは恋愛の魔法だった。今は、死に縁取られた有限さが世界を輝かせている。この歌集は、その世界をも違和感を持って見つめるところで終わっているように思う。そして、どこに向かうのか。次の歌集は10年後だろうか。早くも楽しみだ。

穂村弘 歌集『水中翼船炎上中』講談社 2018年5月