2017年6月27日火曜日

河野瑤 短歌 ひめくり 2017夏

(河野瑤の自作短歌です。)

花散ったあとの五月は青過ぎて逃げかくれする息さえできない

永遠に続く音楽などなくて梅雨入りの日の原価計算


郵便配達ではないな 雨音に足音まじる病欠の午後


雨おとの骨董市で語りつぐノッテイングハムのまやかしの薔薇


うたごえがかなしい国の水面には紫陽花色が染みついていた


向日葵の束をかかえて地下鉄に乗る人がいる梅雨があけた日


本箱で窓がかくされその裏は校庭らしい二年めの夏


書きおえたあともしばらく鳥達は詩の形して夏空にいた


湾が見える方角に行くことにした水曜の朝のシマ猫と僕


漆黒に百日紅散る夢をみて電話の声をたしかめる朝


早逝の幼馴染が夢にきて見知らぬ祭りに誘おうとする


ここだよね めちゃくちゃ楽しかったよね 花束置いて立ち去った人


もうだめになってしまった八月のポオトレイトにずぶ濡れの犬



(初出)
歌誌「かばん」2017年6月号、「みずつき6  2017初夏」、かばん関西オンライン歌会


2017年6月15日木曜日

作歌のヒント 永田和宏 を読む (8/1111)

 長年、塔短歌会を主宰した永田和宏さんによる、短歌を詠むための手引書、さらには著者が冒頭の「新板によせて」で述べているように、とても読みやすい「短詩型表現論」である。
 言うまでもないが、著者は作歌の指導者として長く活躍されてきた方であり、短歌を作り始めた時に歌会などで良く指摘される問題点について網羅されている。
例えば、言葉をどれだけ省略できるか、念を入れない、駄目を押さない、結句でオチをつけない、など。
「言葉で説明すればわかるようなことは、歌にする必要はないのです。」(「形容詞で説明しない」)
 さらに、ぼくが言うのも口幅ったいけれど、比喩や反語の効果、歌の「読み」の意義の説明も絶妙。何度も読み返したくなる。例歌もアララギ系の近代短歌の代表作に加え、和歌からも厳選されている。この書が想定する読者層が慣れ親しんできた作品や時代を意識しているのかもしれない。
 また「歌会」の役割についての記述も是非、心にとめたい。確かに短歌は「座の文学」かもしれない。

 敢えて言えば、2007年に初版、2015年に改訂された書としては、定型や文語について記述がやや保守的では、と思われる。これも読者層を意識しているのかもしれない。文語・定型で短歌を詠む人たちの大半は、還暦を越えている。もっと若い人たちの中にも、文語で言葉の美を極めようとしている作者もいるけれど、今、広く詠み読まれる短歌の主流は現代日常語(口語)だと思う。
 これから文語による永遠の美を追求しようとする人は立派だ。だが、短歌を身近なところにおいて心を表現し、読まれることを推奨するのであれば、それを担う役割をもっと日常語に任せても良いのではないか。そもそも文語表現が得意としてきた抒情や詠嘆は、二十一世紀になったのを境に変質しているような気さえする。念のためここで、永田さんの短歌作品は文語でも柔軟に心を表現していて、文語特有の権威的な感じがなく、美しい、ということも申し述べておく。
 また定型はそもそも文語によって、その表現力が最大限、発揮されていたと思う。日常語を定型に当てはめようとすると、どうしても窮屈だったり、揺らぎが生じる。既に一千年以上も使い続けられ、現代語でも何とか詩にしてしまう定型はすごいな、と思うけれど、定型プラスマイナスエックス以外は短歌として認めない、という規範的な姿勢を誰かがもしも取るとすれば、短歌という詩型の寿命を縮めかねない。いや、短歌という言葉自体はどうせ明治以降、使われだした語なので、文語・定型と共にゆっくり滅びゆく美となっても構わないけれど、一行で収まるほど短い韻律詩、という詩型はさらに発展させていきたい。なんなら、やまとうた、と言っても良いと思う。

 さて、本書の白眉は最後の章「短詩型における表現の本質」だ。15ページの短い章だが、著者はまず谷川俊太郎の「詩とは、自分の内側にあるものを表現するのではなく、世界の側にある、世界の豊かさや人間の複雑さに出会った驚きを詩として記述するのだ」という発言を引く。その上で著者は(詩は自己表現ではない、とまで言い切るのは躊躇するが)「短歌という短詩型では、自分の言いたいことは、自分で言わず、相手に感じ取ってもらう、これこそがこの詩型の本質だと私は思っています。」とテーゼを立てる。この章で引用されている例歌、高野公彦と河野裕子の二首と共によく噛み締めたい。
 確かに、読んでいて引き入れられる短歌作品は、表現の中に、世界や宇宙すら入ってしまいそうな飛躍が入っていることが多い。読者が想像をのせることができるワイルドカードと言っても良いかもしれない。著者は短歌作者の立場からこれを「言わないための表現」「虚の表現」と言っている。


 短歌の読者は、この「虚の表現」の読みを作者から任せられる。もしかしたら、ここに短歌が結局のところ広く読まれない原因があるのかもしれず、閉鎖性が指摘される理由かもしれない。読みや鑑賞の面白さを広げるのも大切だと思う。また、必ずしも飛躍ばかりが「虚の表現」の方法とは限らないだろう。短歌にできること、やらねばならないことは、まだまだたくさん、ある。











NHK出版 2015年新版

2017年6月11日日曜日

スーパーアメフラシ 山下一路 を読む (7/1111)

とつぜんのスーパーアメフラシ父さんの見る海にボクは棲めない  
                         (スーパーアメフラシあらわる)

 海の岩場に大きな、ぐにゃぐにゃしたものがいる。あ、動いてる。生き物らしい。人間とはかけ離れた形になって、ぐてっとしている。急にどうしたんだ、父さん!
 カフカの「変身」を思わせる作品からタイトルが取られた山下一路さんの歌集「スーパーアメフラシ」を読んで思った。これは、自爆テロだ。秩序の解体だ。
 根底に、時間の進行への抵抗があるのではないか、と思う。時が進むことは必ずしも進歩を意味しない。作者は不条理を以って、時の流れは退化することもあるのだと読者に見せつける。例えば、介護。

母さんのまがった指から夏空へときはなたれてやがてカナブン   (やがてカナブン)

 まがった指は、老いて介護の対象となってしまったことを象徴するのだろう。カナブンは情けなくて切ない、軽い存在。だが、なぜここに?あ、母さんだったのか。

 ありがちな日常も、作者の手にかかれば緊急事態となり、無批判に受け入れてしまうことに異議が唱えられる。

逃げ道が樹海のようにひろがった早朝会議のフローチャート図    (ジョブシフト)

 退屈な会議のためにわざわざ早起きし一日の労働時間まで長くなる鬱陶しさか、もしかしたら議題が逃げ出したくなるようなものかもしれない。確かに、フローチャート図を辿ろうとすると、樹海のように迷う。樹海が企業社会そのものを比喩しているようだ。

 批評は時代状況そのものにも向けられる。戦後に暮らしていると思ったら、いつの間にか戦争の準備が進み、戦前になってしまっていた。

教室の釘に吊るされているモップ ボクを戦争につれてって  
                           (ボクを戦争につれてって)

 ボク、は民主主義と平和を最高の価値とする教育を受けた戦後世代のことだと思う。戦後が戦前にすり替わってしまったのは、戦後教育の敗北だ。何十年もいったい、何をしていたのか。民主・平和は、教室に掲げられた原則ではなく、掃除のモップだったのか。

 時がたつにつれて進歩しているはずのものが、後戻りしているじゃないか。不条理とユーモアを武器にして、時間とともに出来上がった権威や秩序を解体し、結局こうなってしまっている世界に異議を申し立てる、「スーパーアメフラシ」はそんな歌集だ。

 作者は戦後、歌壇の一翼を担った歌人にして、企業戦士であった人である。この歌集は作者による「我が解体」、そして、現状に安住しがちな同世代の人たちへの疑問の投げかけ、さらには自らを解体せよという「檄」の歌集のようにも思える。自分たちは本当に、時間を前に進めていたのか。
 厳しい問いかけのように思えるが、実は作者がティーンエイジャーだった頃は、自己批判、自己否定は普通にあった。そもそも全共闘運動は、高度経済成長社会のアンチテーゼだった。しかも高度成長の終焉と全共闘の挫折は同時に起こった。半世紀ののち、社会や経済の資産継承は、もうあまり期待できない。後の世代に伝えてほしいのは、あの「解体」のエネルギーだ。











青磁社 2017年4月


(補論)


 山下一路さんと同世代となる「団塊の世代」「全共闘世代」は1945年から1952年生まれぐらいまで。歌人では知る限りでは、小池光さん、河野裕子さん、道浦母都子さん、永田和宏さんなど。価値観が比較的はっきりとしていて活躍が目立つ世代だ。このあとに1960年生まれぐらいまでの、価値観の過渡期のような世代がいる。歌人では大辻隆弘さんなど。フラワーしげるさんや、後のニューウェーブ短歌の旗手となる加藤治郎さんも、この世代。口語短歌やニューウェーブ短歌を主導したのは1960年代生まれの俵万智さん、穂村弘さん、萩原裕幸さん達だ。

2017年6月3日土曜日

10年後、ともに会いに 寺井暁子 を読む (6/1111)

 当書はUnited World College (世界各国から選抜された高校生を国際人として養成する機関)を卒業した著者が、卒業から10年後に世界各国に散らばった同級生を訪ねて歩いた記録である。ほぼ一年に渡る旅、ヨーロッパ、米国、中近東にいる友人への訪問記が収められている。著者はイスラエルとパレスチナを訪れた後、2011年エジプト革命に遭遇する。その地域と革命を実際に見た記録が400ページに渡る当書の半分を占めているのも特徴である。

 「目を閉じて世界地図に向かってダーツのピンを投げる。刺さった場所から自分の次のステージをスタートする。それぐらいの冒険心を持っていたいと彼女が呟いた」
 ボストンに住み、国際機関で働き東チモールに派遣された経験を持つ友人の呟きは、そのまま著者の想いに重なる。
 読者がたぶん最初に気が付くのは、著者が受けた教育の特徴だろう。世界中から選りすぐりの高校生を一つの学校に集め、国際社会に貢献する人材を育てる、というUnited World Collegeの理念。著者は米国ニューメキシコ州にあるその学校の寮で2年間の共同生活を送っている。大学進学後、国際機関に就職する卒業生も多い。その多くはまだ仕事についたばかりだったり、起業してまもなくだったり、大学院に在籍していたり、である。二十歳代後半は、社会に働きかけて糧を得る術と感覚が身につき独り立ちし、具体的な未来への展望が開ける時期だ、という点ではどの先進国も同じだ。
 著者の同級生に特徴があるのは、United World Collegeで教えられた、自分たちは受けた教育を世界に還元し、世界を変えていくのだ、という、語の正しき意味でのエリート精神だろう。著者は10年ぶりに会った同級生に、自分たちは本当に、教えられた精神どおりになっているか、問いかけて歩く。国際機関で働くことに意義を見いたしつつある者、起業して成功を収めつつある者、その多くが祖国と仕事や生活の場という二つの国を持ち、仕事と生活を両立させながら戦っている。が、彼らが世界を変えられるのか、はっきりとした答えは見いだせないまま当書の前半は終わる。

 さて、エジプト革命の7,8年前、ぼくは仕事で、ロンドンの中心部から少し外れた地域にあるインターネットカフェを良く訪れた。まだホテルにインターネット回線が完備する前のことで、仕事のデータをやりとりする為に使ったのだったが、その、開け放しの窓の下から地下鉄が走る音が響いてくる場所は中近東からの移民でいつもいっぱいだった。みな、電子メールで故国にいる人達と情報や励ましのやりとりをしているのだろう、と思った。2006年にツイッターとフェイスブックが広くサービスを始める前のことだ。
 それから7年後の2011年、当書の筆者は、友にあいにいく旅の途中でエジプトの民主化革命に遭遇し、ツイッターのハッシュタグ #Jan25 に始まった革命の実際の様子、デモや広場の座り込みをしている人たちの声をiPhoneから発信した。当書の後半は、友との10年ぶりの交流の記述は薄れ、イスラエルとパレスチナ、エジブト革命との遭遇を、その場にいた話として伝えている。日本にいてはまったく分からない事情が明らかにされていて、現場を追体験することができる。

 デモ、スト、座り込み、で思い出したのが日本の1960年代の学生運動だ。それなりの理念を持った、大学が長期の休講に追い込まれるほど激しい運動だったのに、革命どころか、挫折感以外に社会に影響を与えることすらほとんどなく終わったのはなぜか。社会や歴史的背景の違いもさることながら、運動を主導した学生たちが、社会のリーダー予備軍としての意識を持ち合わせていたなかったことに大きな原因があると思う。彼らは民衆の支持を得ることなく終わった。当書のエジプト革命の章には、筆者の同級生が海外の金融機関の仕事を辞めてエジプトに帰り、革命に参加している姿が描かれている。筆者が当書の半分を費やして中近東の姿や革命を描いたのは、ここに「自分たちは世界を変えようとしているのか」という問いに対する答えを見出しつつあったから、ではないか、と思う。民衆を導くオピニオンや情報を発信し、それにより社会をリードすること、歴史を進めること、それができて、真のエリートと言えるのではないか。

 変革へと導く、その根本にあるのは、筆者はエピローグで書いたこの言葉だと思う。「私たちは、今でもきっと、お互いに影響しあって生きている。」かつての仲間たちへの、そして訪れる国の人達への共感と共鳴、当書からは筆者のそれが溢れるほど伝わってくる。共感なくして影響を与えることはできない。題の「ともに」は「友に」「共に」、情報とは情けに報いるものなのだ。

 当書は2012年に、国分寺のクルミド出版から発行された。広く書店で売られている本ではない。クルミド出版のホームページのURLを掲載しておく。
後半、特にエジプト革命の章が情報量とリアルさに比例して長大で、登場する人と場所を整理しながら読むのが大変ではあるけれど、日本の中だけで教育を受けた同じ世代の人達に読んでもらいたい本だ。











2012年10月発行、クルミド出版