2017年5月4日木曜日

本は読めないものだから心配するな・管 啓次郎 を読む(1/1111)

 詩人であり翻訳者でもある著者の10年間に渡る読書、いや、追ったページについてのエッセイ集だ。著者はページのテキストを読み取り、旅の経験に重ねて、南米へ、ヨーロッパへ、北米へと導いてゆく。
 章立てがされていない。著された一かたまりのテキストの最初がボールド表示の見出しとなっているだけだ。読者はこのエッセイを一編の書評ではなく、詩的強度のつよいテキストの連続として読む。
 ボールド見出しと共に特徴となっているのが、見開き2ページからもっとも強度のある一行が抜き出され、見開きの左肩に置かれていることだ。一冊のページをぱらぱらめくりながら左肩を見ていくと、そこに一行詩が次々と出現する。
 もともとは、ばらばらに発表された書評や読書日記をまとめたエッセイ集なのだが、取り上げられた本の多くをぼくは知らない。たが、このエッセイ集は旅のようだと思う。章立てがなく、場所や体験というボールド見出しがあるだけ。テキストを読むことは旅の歩みに似ている。

(抜書き)>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

「詩論は詩の代用とはなりえない、、、引用が唯一の方法となる。言葉をつみとり活けることにおいて、人はアレンジメントの職人にして芸人となる。」(P61)

 (詩歌の特性として引用のしやすさがあるのかもしれない。特に短歌なら作品を容易にまるごと全部、引用できる。)


「言語の文学的な使用法とは、絶えず規定の言語の輪郭を内破させ、ひょっとしたら「魂」みたいなものが閉じこめられているかもしれない音と文字の壷を内側から破壊することにかかっている。」(P87)



「本は読めないものだから心配するな」菅 啓次郎著 左右社 2009年