2017年5月10日水曜日

天野忠詩集・天野忠 を読む (3/1111)

「もう 年をとってしまったから
 あんたは
 あんなに立派すぎる空を 見てはならない
 あんたは
 台所で
 しずくをたらす 水道の栓を
 とめてはならない」(しずかな人)

 確かに、何かをしてはならない、とは老人に良く言う言葉だ。一見、老人の世界を表現したと思われがちな天野忠の作品だが、違うと思う。鋭い感性をもって老いを観察しているように感じる。
 高らかにうたうのではなく、どちらかと言えば脱力しているような表現。だがそれは、何かを克服してやっとたどり着いたような脱力だ。老いがテーマだが、老いた作品ではない。

 作品の背景には生き方の美学がある。生と美の座標軸に、暮らしが一日、また一日と、点のように位置づけられてゆく。老いとは、その点が座標からだんだんブレてゆくことだ。だが座標がなければ、ブレを認識することもできない。作者はたぶん、生と美のかなり強固な座標と、ブレをブレと感じる鋭い感性を持っていたのだろう。そして、老いを否定せず、抵抗もせず、客観的に表現してみせた。老いを美や生き方の批評にしてしまったのだ。

 批評の存在に気づかせてくれるのが、一連の詩の最後にしばしば置かれた、読者への一撃だ。
「それから 戸締まりをして おばあさんは山へ 自分を捨てにいった。」(「童謡」)

 冒頭で引用した「しずかな人」は、次のように終わる。作者が実は、老いを外から見つめていたのに気付かされる一節である。

「あんたは もう すっかり 年をとってしまった

 台所の水道の栓は キッチリ
 わたしがとめます。」(しずかな人)


 思潮社 現代詩文庫85 1986年