「東京を生きる」を上海で読んだ。上海中心部はこの10年ほどの間に、東京以上に豪華なショッピングモールが立ち並び、道路は高級車で溢れている。歩く人はブランド物を身にまとい、モダンなレストランは予約が取りにくい。一方で、郊外の暮らしは、以前よりは立派なマンションが増えだいぶきれいな感じになったが、中心部の消費と釣り合うほど豊かか、と問われれば、程遠い。富の偏在によりごく限られた人たちが奢侈品の消費に走り、中流の上ぐらいの層がそれに追随して、富の印を見せようとブランド物をまとい上海の中心部を歩いているのだろう。上海は、バブル経済に踊った東京の香りがする。
さて、2016年の日本のGDPはバブルのピークだった1990年を120兆円も上回っているのをご存知だろうか。雇用の問題等々で不公平感は否定できないが、日本では、わざわざ富を見せつけなくてもそこそこの豊かさを味わえるようになった。(中には、急にお金が入ってきたのを見せたい人たちもいるようだけど。)ちょっと背伸びをすれば大概のものは手に入るのが、今の日本であり、東京だ。上海で読んだ「東京を生きる」に、うわべではなく内面に向かって消費する人の姿を感じた。
著者、雨宮まみは、福岡出身で、東京の大学を卒業し就職、数年後にライターとして独立し、東京で生活した。この書は2000年代の東京を舞台としたエッセイだ。
東京で、ちょっと背伸びをした消費をしてみせる。富の記号としての、ブランド。東京はその記号を解読できる人が大勢いる街だ。ブランド物を身につける。満ち足りている、と人に分からせれば、自分自身も何となくそんな気になりそうだ。エッセイの中では、ブランド物だけではなく、恋愛ですら、満ちていることをしめす記号に変換される。富を見せつけているのではない。心が満ちていないから、足りないから、そうではないという記号を鎧のように身にまとうのだ。
さて、問題はここにある。著者は書く。
「欲しいと思って手に入れたものが、あっという間になんの魅力もない布切れやがらくたに変貌していく。・・・見つけて買うまでの瞬間だけは『これは運命だ』も思うことができる。わたしは、何のサイコロを転がしているのだろうか?」(「越境」)
この焦燥感はどうしたことか。得れば得るほど、喪失してゆく。孤独と悲しみが残る。追いかけっこ。東京を追いかけ、東京の孤独に追いかけられ、東京で生きている。
昨年秋、雨宮まみの突然の死が報じられた。不自然な死。いや、追いかけっこの先にある必然だったのか。ペンネームの「まみ」は、穂村弘の歌集「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」の作中主体、まみに由来する、と、その時知った。歌集は、孤独の追いかけっこをする人どうしのメッセージとも取れる一首で終わる。
夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう
(穂村弘・「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」小学館 2001年)
(穂村弘・「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」小学館 2001年)
大和書房 2015年