2017年5月21日日曜日

東京を生きる 雨宮まみ を読む (5/1111)

「東京を生きる」を上海で読んだ。上海中心部はこの10年ほどの間に、東京以上に豪華なショッピングモールが立ち並び、道路は高級車で溢れている。歩く人はブランド物を身にまとい、モダンなレストランは予約が取りにくい。一方で、郊外の暮らしは、以前よりは立派なマンションが増えだいぶきれいな感じになったが、中心部の消費と釣り合うほど豊かか、と問われれば、程遠い。富の偏在によりごく限られた人たちが奢侈品の消費に走り、中流の上ぐらいの層がそれに追随して、富の印を見せようとブランド物をまとい上海の中心部を歩いているのだろう。上海は、バブル経済に踊った東京の香りがする。
 
 さて、2016年の日本のGDPはバブルのピークだった1990年を120兆円も上回っているのをご存知だろうか。雇用の問題等々で不公平感は否定できないが、日本では、わざわざ富を見せつけなくてもそこそこの豊かさを味わえるようになった。(中には、急にお金が入ってきたのを見せたい人たちもいるようだけど。)ちょっと背伸びをすれば大概のものは手に入るのが、今の日本であり、東京だ。上海で読んだ「東京を生きる」に、うわべではなく内面に向かって消費する人の姿を感じた。

 著者、雨宮まみは、福岡出身で、東京の大学を卒業し就職、数年後にライターとして独立し、東京で生活した。この書は2000年代の東京を舞台としたエッセイだ。

 東京で、ちょっと背伸びをした消費をしてみせる。富の記号としての、ブランド。東京はその記号を解読できる人が大勢いる街だ。ブランド物を身につける。満ち足りている、と人に分からせれば、自分自身も何となくそんな気になりそうだ。エッセイの中では、ブランド物だけではなく、恋愛ですら、満ちていることをしめす記号に変換される。富を見せつけているのではない。心が満ちていないから、足りないから、そうではないという記号を鎧のように身にまとうのだ。
 さて、問題はここにある。著者は書く。
「欲しいと思って手に入れたものが、あっという間になんの魅力もない布切れやがらくたに変貌していく。・・・見つけて買うまでの瞬間だけは『これは運命だ』も思うことができる。わたしは、何のサイコロを転がしているのだろうか?」(「越境」)
  この焦燥感はどうしたことか。得れば得るほど、喪失してゆく。孤独と悲しみが残る。追いかけっこ。東京を追いかけ、東京の孤独に追いかけられ、東京で生きている。

 昨年秋、雨宮まみの突然の死が報じられた。不自然な死。いや、追いかけっこの先にある必然だったのか。ペンネームの「まみ」は、穂村弘の歌集「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」の作中主体、まみに由来する、と、その時知った。歌集は、孤独の追いかけっこをする人どうしのメッセージとも取れる一首で終わる。

 夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう
(穂村弘・「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」小学館 2001年)














大和書房 2015年

2017年5月15日月曜日

転生の繭 本多忠義 (歌集) を読む (4/1111)

 もういつだったか忘れたほど昔、たぶん子供の頃だろう、宇宙は球体ではなくくぼんだ花瓶のような形をしている、と読んだ記憶がある。心もきっと、宇宙と相似の形をしているのだろう、と思った。くぼんだところは、他人には欠落のように見えるかもしれないけれど、心の大切な一部だ。

 宇宙のくぼみに向けて、探査機を飛ばす。探査機は微弱な電波を出しながら、闇の中を飛びつづける。微弱な信号を受けてくれる生物が宇宙のどこかにいるかもしれない。心もまた、世界のどこかにいるはずの人に向かって、毎晩、毎晩、信号を綴る。
 本多忠義の歌集「転生の繭」の最初の四章から聴こえてくるのは、宇宙のくぼみに向かう探査機からの信号だ。

  あなたには言えない星が映されてプラネタリウムで目を閉じている 
                          「柔らかすぎる雪のことなど」

 たぶん読者は、この一行で指示されているものが作品の中から欠落しているように感じるだろう。作中に提示されたものは否定されたまま終わり、探査機がどんな星を観測しているのかは不明のままだ。だが、心という宇宙がくぼんでいる形はそうとしか表現できない。この歌集は心の形の忠実な描写なのだ。

 そして、意識のブラックホール。探査機は急降下し、信号はいったん弱まる。

  逃げ込んだてんとう虫が壁の絵を斜めに降りている薄明かり 
                                 「青い封筒」

 歌集の章が進み、気がつくと光が当たりはじめている。ブラックホールの先にあったのは死ではなく、命だった。現われたのは、地上の夏。家族と新しい家のイメージがやってくる。

  いつのまにコスモスわたしよりも背が伸びてしずかに夏のおわりに 
                               「さざめく夕べ」

  なにもない家ですだから帰り際星に気付いてくれてうれしい
                                     「アーチ」

 宇宙の果てのくぼみを一巡りして戻ってきた物体は、左右が反転していると言う。探査機の信号は闇から光に、死から生へと変わった。作者が歌集に込めた標題が表れる。

  春の雪記憶に溶けて転生の繭に内から外から触れる
                                  「転生の繭」

  生は、生活という形で表される。具体的には家庭であったり職場であったりする。子が生まれれば願いを込めて名付けるし、妻の突然の病気があるかもしれない。職場が学校だったら生徒との交流や励ましもある。震災の影も見える。生活の旋律は長調だったり短調だったりするが、いずれも、生きよ、という信号を発している。例え逃げだしても、死の方へではなく、生の方へ、だ。

  調査書にゴシック体で立ち並ぶ2222さあ逃げなさい
                                「長い永い廊下」

   一般に、身近な人達に向けて作られた作品はときどき、子供の自慢話しかない年賀状のような退屈さを感じることがあるが、本多忠義の作品は身内を描いていても退屈さが全くない。むしろ、引き入れられるように読んでしまう。溢れる愛を主観的に表現するのではなく、愛という心の形を描写するのに成功しているからだろう。宇宙のくぼみを正確に描写する探査機は、光を放ちながら膨張する宇宙の姿をも正確に伝えている。

  回れその光を懸けててのひらに覚えた熱が連れてくる夏
                                 「空のパズル」

 生を表す部分の探査は始まったばかりだ。心の形がどう描写され続けるのか、本多忠義の作品に注目したいとおもう。
 なお、作者が同時に書肆侃侃房から上梓した「パパはこんなきもち。」は、パパの子育て短歌の歌集。作者の、子供への愛が溢れる作品は、読んでいて純粋に楽しい。











書肆侃侃房・2017年

2017年5月10日水曜日

天野忠詩集・天野忠 を読む (3/1111)

「もう 年をとってしまったから
 あんたは
 あんなに立派すぎる空を 見てはならない
 あんたは
 台所で
 しずくをたらす 水道の栓を
 とめてはならない」(しずかな人)

 確かに、何かをしてはならない、とは老人に良く言う言葉だ。一見、老人の世界を表現したと思われがちな天野忠の作品だが、違うと思う。鋭い感性をもって老いを観察しているように感じる。
 高らかにうたうのではなく、どちらかと言えば脱力しているような表現。だがそれは、何かを克服してやっとたどり着いたような脱力だ。老いがテーマだが、老いた作品ではない。

 作品の背景には生き方の美学がある。生と美の座標軸に、暮らしが一日、また一日と、点のように位置づけられてゆく。老いとは、その点が座標からだんだんブレてゆくことだ。だが座標がなければ、ブレを認識することもできない。作者はたぶん、生と美のかなり強固な座標と、ブレをブレと感じる鋭い感性を持っていたのだろう。そして、老いを否定せず、抵抗もせず、客観的に表現してみせた。老いを美や生き方の批評にしてしまったのだ。

 批評の存在に気づかせてくれるのが、一連の詩の最後にしばしば置かれた、読者への一撃だ。
「それから 戸締まりをして おばあさんは山へ 自分を捨てにいった。」(「童謡」)

 冒頭で引用した「しずかな人」は、次のように終わる。作者が実は、老いを外から見つめていたのに気付かされる一節である。

「あんたは もう すっかり 年をとってしまった

 台所の水道の栓は キッチリ
 わたしがとめます。」(しずかな人)


 思潮社 現代詩文庫85 1986年

2017年5月8日月曜日

千百十一冊を読む日々、に変更

 一千冊ではなく、千百十一冊を目標にすることにした。理由は単純で、一千冊で検索すると既存の有名サイトが現われ、いかにも既に試みられたことと分かるからだ。
 1111、千百十一冊なら、既に試みられたことを超える。
 週一冊のペースだと二十一年がかりとなるが、そのうち週二冊読む時間もできるだろう。最晩年、千百十一を目指す日々となっているかもしれないが。

2017年5月7日日曜日

多田富雄詩集 寛容・多田 富雄 を読む (2/1111)

 当書は著者が逝去した後、病を得てから発表された詩を集めて刊行されたものだ。毎年、友人に送ったクリスマスのあいさつメールもクロニクルのように加えられている。読者は、闘病しながら前向きに生きる姿を三十篇ほどの詩に重ねながら読み、その姿勢に感動する。だが、作品が発するメッセージをよりしっかり受けとめるには、著者は高名な免疫学者であるとか、能に造詣が深いとか、数々の受賞に輝くエッセイストであるとか、半身不随で闘病する姿がNHKスペシャルで放映され大きな反響を呼んだとか、偉大な著者にかんするこのような知識をいったん取っ払い、詩に直接、対峙するのが良いと思う。

 まず感じるのは、詩に描かれた死の生々しさ、気味悪さだ。
「人間は木の台のように 泥に捨てられて朽ちる 天竺の下人のやり方で 括り袴の裾を前に手挟み 鞭のような杖で地面を叩きながら 轍ばかりの泥道を 五色の紐に引かれて歩いていった」(弱法師)
「霧の中では 死体が根を張ってゆく 奇妙な形によじ曲がった根の先が するすると伸び ばらばらになった肢体は 見る見るうちに蔓草に覆われてしまう」(荒野を渡る風の挽歌)
死は、美化ではなく陵辱である。当書の作品には、死の陵辱のグロテスクな光景が溢れている。これはまるで死後の世界を見てきた人のルポルタージュを読むようではないか。

 彼の世には此の世の文脈が通用しない。死の世界は、詩によってでしか表現できない。死の世界、は詩の世界、だ。
「乾燥した舌を動かし 語ろうとした言葉は 自分でも分からなかった おれは新しい言語で喋っていたのだ」(新しい赦しの国)

 詩となった死が語たるのは喪と、この運命を引き当てたという呪いと、ごくわずかな鎮魂。書名となった「寛容」は、上に引用した「新しい赦しの国」の結末で僅かに語られる。
「昔赦せなかったことを
百万遍でも赦そう
老いて病を得たものには
その意味がわかるだろう
未来は過去の映った鏡だ
過去とは未来の記憶に過ぎない
そしてこの宇宙とは
おれが引き当てた運命なのだ」

 死に直面した人が最後に見るのは、生の光景なのだろうと思う。巻末の遺稿として掲載された、妻に捧げられた「カントウズII」。伴侶との出会い、冒険、安堵のイメージ、つまりは記憶されるべき生涯を表現している。生の拠りどころとなったもの。著者の直前の指文字は、カエル(帰る)、カエル(帰る)と判読できたそうだ。


 生は死を内包し、死が生を照射する。それが美しかろうと、美しくなかろうと、生死の真実を伝えられるのが詩のことばなのだ、そう考えた。











藤原書店 2011年

2017年5月4日木曜日

本は読めないものだから心配するな・管 啓次郎 を読む(1/1111)

 詩人であり翻訳者でもある著者の10年間に渡る読書、いや、追ったページについてのエッセイ集だ。著者はページのテキストを読み取り、旅の経験に重ねて、南米へ、ヨーロッパへ、北米へと導いてゆく。
 章立てがされていない。著された一かたまりのテキストの最初がボールド表示の見出しとなっているだけだ。読者はこのエッセイを一編の書評ではなく、詩的強度のつよいテキストの連続として読む。
 ボールド見出しと共に特徴となっているのが、見開き2ページからもっとも強度のある一行が抜き出され、見開きの左肩に置かれていることだ。一冊のページをぱらぱらめくりながら左肩を見ていくと、そこに一行詩が次々と出現する。
 もともとは、ばらばらに発表された書評や読書日記をまとめたエッセイ集なのだが、取り上げられた本の多くをぼくは知らない。たが、このエッセイ集は旅のようだと思う。章立てがなく、場所や体験というボールド見出しがあるだけ。テキストを読むことは旅の歩みに似ている。

(抜書き)>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

「詩論は詩の代用とはなりえない、、、引用が唯一の方法となる。言葉をつみとり活けることにおいて、人はアレンジメントの職人にして芸人となる。」(P61)

 (詩歌の特性として引用のしやすさがあるのかもしれない。特に短歌なら作品を容易にまるごと全部、引用できる。)


「言語の文学的な使用法とは、絶えず規定の言語の輪郭を内破させ、ひょっとしたら「魂」みたいなものが閉じこめられているかもしれない音と文字の壷を内側から破壊することにかかっている。」(P87)



「本は読めないものだから心配するな」菅 啓次郎著 左右社 2009年

2017年5月3日水曜日

はじめに

 歳を取るということは、夕方、知らない場所を自転車で走ることに似ている。行き着かず、自分がどこにいるのかも分からず、だんだん暗くなる。真っ暗になるまでに、あとどれだけの景色を見ることができるだろうか。
 
 自転車を漕ぐように読書する。一日五十ページ、一週間でたいがいの本が一冊、読める。一年で五十冊、二十年で一千冊。小説やエッセイばかりではない。短歌を作ったり評を書いたりしているため、歌集や詩集が一千冊の中に相当、混じる。歌論、詩論も読むだろう。疲れている時には、軽く楽しい読み物に癒やされたい。
 
 困るのは、読んだあとに残るモヤモヤだ。行を目で追っていくうちに流れる感応電流の行き場がない。言葉の形にすれば、どこかに流すことができるかもしれない。いまさら、のようにブログを始める。本を読んで流れた感応電流を貯めるためだ。あまり日付が空いてはかっこ悪いではないか。
 
 なお、一千冊のどの辺にいるか示すために、読んだ本をタイトルとし、タイトルの前に連番を振る。また折角なので、歌誌「かばん」などに発表した自作の短歌を掲載したり、ツイッターでつぶやききれない感想などをブログに述べることもあるかもしれない。