長年、塔短歌会を主宰した永田和宏さんによる、短歌を詠むための手引書、さらには著者が冒頭の「新板によせて」で述べているように、とても読みやすい「短詩型表現論」である。
言うまでもないが、著者は作歌の指導者として長く活躍されてきた方であり、短歌を作り始めた時に歌会などで良く指摘される問題点について網羅されている。
例えば、言葉をどれだけ省略できるか、念を入れない、駄目を押さない、結句でオチをつけない、など。
「言葉で説明すればわかるようなことは、歌にする必要はないのです。」(「形容詞で説明しない」)
さらに、ぼくが言うのも口幅ったいけれど、比喩や反語の効果、歌の「読み」の意義の説明も絶妙。何度も読み返したくなる。例歌もアララギ系の近代短歌の代表作に加え、和歌からも厳選されている。この書が想定する読者層が慣れ親しんできた作品や時代を意識しているのかもしれない。
また「歌会」の役割についての記述も是非、心にとめたい。確かに短歌は「座の文学」かもしれない。
敢えて言えば、2007年に初版、2015年に改訂された書としては、定型や文語について記述がやや保守的では、と思われる。これも読者層を意識しているのかもしれない。文語・定型で短歌を詠む人たちの大半は、還暦を越えている。もっと若い人たちの中にも、文語で言葉の美を極めようとしている作者もいるけれど、今、広く詠み読まれる短歌の主流は現代日常語(口語)だと思う。
これから文語による永遠の美を追求しようとする人は立派だ。だが、短歌を身近なところにおいて心を表現し、読まれることを推奨するのであれば、それを担う役割をもっと日常語に任せても良いのではないか。そもそも文語表現が得意としてきた抒情や詠嘆は、二十一世紀になったのを境に変質しているような気さえする。念のためここで、永田さんの短歌作品は文語でも柔軟に心を表現していて、文語特有の権威的な感じがなく、美しい、ということも申し述べておく。
また定型はそもそも文語によって、その表現力が最大限、発揮されていたと思う。日常語を定型に当てはめようとすると、どうしても窮屈だったり、揺らぎが生じる。既に一千年以上も使い続けられ、現代語でも何とか詩にしてしまう定型はすごいな、と思うけれど、定型プラスマイナスエックス以外は短歌として認めない、という規範的な姿勢を誰かがもしも取るとすれば、短歌という詩型の寿命を縮めかねない。いや、短歌という言葉自体はどうせ明治以降、使われだした語なので、文語・定型と共にゆっくり滅びゆく美となっても構わないけれど、一行で収まるほど短い韻律詩、という詩型はさらに発展させていきたい。なんなら、やまとうた、と言っても良いと思う。
さて、本書の白眉は最後の章「短詩型における表現の本質」だ。15ページの短い章だが、著者はまず谷川俊太郎の「詩とは、自分の内側にあるものを表現するのではなく、世界の側にある、世界の豊かさや人間の複雑さに出会った驚きを詩として記述するのだ」という発言を引く。その上で著者は(詩は自己表現ではない、とまで言い切るのは躊躇するが)「短歌という短詩型では、自分の言いたいことは、自分で言わず、相手に感じ取ってもらう、これこそがこの詩型の本質だと私は思っています。」とテーゼを立てる。この章で引用されている例歌、高野公彦と河野裕子の二首と共によく噛み締めたい。
確かに、読んでいて引き入れられる短歌作品は、表現の中に、世界や宇宙すら入ってしまいそうな飛躍が入っていることが多い。読者が想像をのせることができるワイルドカードと言っても良いかもしれない。著者は短歌作者の立場からこれを「言わないための表現」「虚の表現」と言っている。
短歌の読者は、この「虚の表現」の読みを作者から任せられる。もしかしたら、ここに短歌が結局のところ広く読まれない原因があるのかもしれず、閉鎖性が指摘される理由かもしれない。読みや鑑賞の面白さを広げるのも大切だと思う。また、必ずしも飛躍ばかりが「虚の表現」の方法とは限らないだろう。短歌にできること、やらねばならないことは、まだまだたくさん、ある。
NHK出版 2015年新版