とつぜんのスーパーアメフラシ父さんの見る海にボクは棲めない
(スーパーアメフラシあらわる)
海の岩場に大きな、ぐにゃぐにゃしたものがいる。あ、動いてる。生き物らしい。人間とはかけ離れた形になって、ぐてっとしている。急にどうしたんだ、父さん!
カフカの「変身」を思わせる作品からタイトルが取られた山下一路さんの歌集「スーパーアメフラシ」を読んで思った。これは、自爆テロだ。秩序の解体だ。
根底に、時間の進行への抵抗があるのではないか、と思う。時が進むことは必ずしも進歩を意味しない。作者は不条理を以って、時の流れは退化することもあるのだと読者に見せつける。例えば、介護。
母さんのまがった指から夏空へときはなたれてやがてカナブン (やがてカナブン)
まがった指は、老いて介護の対象となってしまったことを象徴するのだろう。カナブンは情けなくて切ない、軽い存在。だが、なぜここに?あ、母さんだったのか。
ありがちな日常も、作者の手にかかれば緊急事態となり、無批判に受け入れてしまうことに異議が唱えられる。
逃げ道が樹海のようにひろがった早朝会議のフローチャート図 (ジョブシフト)
退屈な会議のためにわざわざ早起きし一日の労働時間まで長くなる鬱陶しさか、もしかしたら議題が逃げ出したくなるようなものかもしれない。確かに、フローチャート図を辿ろうとすると、樹海のように迷う。樹海が企業社会そのものを比喩しているようだ。
批評は時代状況そのものにも向けられる。戦後に暮らしていると思ったら、いつの間にか戦争の準備が進み、戦前になってしまっていた。
教室の釘に吊るされているモップ ボクを戦争につれてって
(ボクを戦争につれてって)
ボク、は民主主義と平和を最高の価値とする教育を受けた戦後世代のことだと思う。戦後が戦前にすり替わってしまったのは、戦後教育の敗北だ。何十年もいったい、何をしていたのか。民主・平和は、教室に掲げられた原則ではなく、掃除のモップだったのか。
時がたつにつれて進歩しているはずのものが、後戻りしているじゃないか。不条理とユーモアを武器にして、時間とともに出来上がった権威や秩序を解体し、結局こうなってしまっている世界に異議を申し立てる、「スーパーアメフラシ」はそんな歌集だ。
作者は戦後、歌壇の一翼を担った歌人にして、企業戦士であった人である。この歌集は作者による「我が解体」、そして、現状に安住しがちな同世代の人たちへの疑問の投げかけ、さらには自らを解体せよという「檄」の歌集のようにも思える。自分たちは本当に、時間を前に進めていたのか。
厳しい問いかけのように思えるが、実は作者がティーンエイジャーだった頃は、自己批判、自己否定は普通にあった。そもそも全共闘運動は、高度経済成長社会のアンチテーゼだった。しかも高度成長の終焉と全共闘の挫折は同時に起こった。半世紀ののち、社会や経済の資産継承は、もうあまり期待できない。後の世代に伝えてほしいのは、あの「解体」のエネルギーだ。
青磁社 2017年4月
(補論)
山下一路さんと同世代となる「団塊の世代」「全共闘世代」は1945年から1952年生まれぐらいまで。歌人では知る限りでは、小池光さん、河野裕子さん、道浦母都子さん、永田和宏さんなど。価値観が比較的はっきりとしていて活躍が目立つ世代だ。このあとに1960年生まれぐらいまでの、価値観の過渡期のような世代がいる。歌人では大辻隆弘さんなど。フラワーしげるさんや、後のニューウェーブ短歌の旗手となる加藤治郎さんも、この世代。口語短歌やニューウェーブ短歌を主導したのは1960年代生まれの俵万智さん、穂村弘さん、萩原裕幸さん達だ。