変な夏だった。火星がずっと低い空にあった。摂氏40度近い猛暑のあと、台風が次々と通り過ぎた。仕事がとても忙しかったはずなのに、記憶に残っていない。思い出せるのは、夜、エアコンを効かせて、眠気が来るまでの間に、菱川善夫が「塚本邦雄の宇宙」I、II で読み解く幻想の王国の一首、一首を味わっていたことだけだ。現実など、どこにもなかった。
菱川善夫は、第二次大戦後に短歌を改革した「前衛歌人」たちを援護する評論を、戦後一貫して発表しつづけた人だ。
菱川善夫は、「前衛歌人」を代表する一人であった塚本邦雄が生涯を終えた時に、塚本の作品から五百首を選んで発表し、後に、カルチャーセンターでそれを一首ずつ読み解くレクチャーを行った。2006年から2007年にかけてのことである。菱川の死去により未完に終わったこの講座の講義録が、「塚本邦雄の宇宙」I、IIにまとめられて、今年の初夏に刊行された。
塚本邦雄の短歌作品は、複雑なコードで構成されている。
戦後の日本の社会への厳しい批評。人間の残酷さ。比喩の範疇を越えた幻想。劇画のような語句。そして、西洋文化の教養。さらには、短歌は滅びるのではないか、という恐れ。それらのすべてがミックスされ、発する光の波長が一つ一つ異なる星のような塚本の短歌を、菱川は一首ずつ丁寧に読み解いてゆく。
菱川のレクチャーで特に注目したいのは、塚本の短歌の批評性に焦点を当てていることだ。
「歌の最高の役割は、現実に対する反歌として成立するということです。」(同書II p94)
その現実は、社会だったり、文明だったり、時には歌壇だったりする。人間、特にその残酷さにも向けられる。短歌であるが故に出来る批評。
菱川が解説を加えた塚本邦雄の作品から、代表作ではないかもしれないけれど、忘れ得ぬ二首を引いておく。
あしたありゆふべありけり胸中に一粒の火の言葉ふふみて
黄鶺鴒水をついばみ言葉もてこころあやむることやすきかも 塚本邦雄『天變の書』
「言葉というのは世界を変えなければだめなんです。世界を焼き滅ぼすだけの力を持たないと、言葉ではない。」 (同書II p203)