2018年10月26日金曜日

現代短歌シンポジウム「ニューウェーブ30年」について

 世代の違いを説明するのに、「夢の超特急の壁」という言葉を使ったことがある。夢の超特急と聞いて1964年の東海道新幹線開業を思い浮かべるかどうかで、世代が分かれる。会社で係長になって、部下がパソコンを使っているのを「ああ、我が社にもついに、」と眺めていた世代までが、壁の向こう側となる。既に全員が還暦を越えている。
 夢の超特急の壁の向こうにいる人たちは、抒情に引きずられる。定型を価値基準としている。「官」のことば即ち文語の方が信用できる。

 壁のこちら側の人たちは、ほぼその逆だ。会社では、プログラマーや為替ディーラーのような、年功序列の定型に当てはまらない職種が地位を得た。公文書は口語横書き、抒情のベースとなるような日本的田園風景は団地となり、路地はポップな都会の光景に取って代わられた。

 短歌も夢の超特急の壁を越えた、というのが、「ニューウェーブ」だったのだろう。2018年6月に開かれた現代短歌シンポジウム「ニューウェーブ30年」でパネラーとして登壇した荻原裕幸、加藤治郎、西田政史、穂村弘、1960年前後に生まれた彼らは、物心ついた時には、東海道新幹線がふつうに走っていたはずだ。
 塚本邦雄や岡井隆の「前衛短歌」が、戦前を引きずった短歌へのアンチテーゼを掲げた、とすれば、短歌は、この四人のおかげでやっと時代に追いついたのだ。日常使っている日本語の読みやすさ。写実にこだわらない大胆な詩的飛躍や現実の異化。作品を介して広がるネットワーク(ニューウェーブの4人の時代には、SNSはなく、パソコン通信であったが)。そうして生まれたニューウェーブ短歌は、個人の心情を越えて、時代の「空気」を写すのに成功した。
 この変化は必然だったとは言え、仮に、彼らの短歌が一定の地位を得なかったら、短歌は、夢の超特急の壁の向こうで消滅していたかもしれない。
  
短歌ムック『ねむらない樹』vol.1 2018年 に掲載されたシンポジウムの記録を読んだ。
  シンポジウムの中で加藤治郎は、「ニューウェーブ短歌」の旗手を、上で名を挙げた4人に限ると主張している。定義や役割を際立たせたかったのかもしれないが、自らの業績を記念碑にしてしまってはいないか。彼らに続く現代短歌の歌人たちを、彼らはもはやリードしていないようにも受け取れてしまう。
 さらに、作者が限定されてしまうと、「ニューウェーブ」は不幸なものであったように見える。作品が反映させた時代はバブル期であり、バブル崩壊とともに時代の価値観も崩壊した。後世、「ニューウェーブ短歌」は一時的な現象のように語られてしまう恐れはないか。
 
結局、定義の問題に行き着くのかもしれない。会場の千葉聡や東直子が持った疑問は、まったくその通りで、女性歌人は「ニューウェーブ短歌」の4人と同じ、もしかしたらそれ以上の役割を果たしている。日常、使っている日本語による言語美の追求を可能にしたのは、夢の超特急の壁のこちら側の女性歌人の功績だろう。敢えて言えば、言語美の追求こそが、詩歌の本質と思う。
 
という訳で、「ニューウェーブ短歌」は現在、主流となりつつある短歌の出発点にはなったが、その短歌が新しい時代を形成して後世の評価を得るには、「ニューウェーブ短歌」の狭い定義を越えて、さらに実績を積む必要がありそうだ、というのが、やや議論不足に終わった感のある今回のシンポジウムの記録を読んでの結論だ。


現代短歌シンポジウム「ニューウェーブ30年」荻原裕幸、加藤治郎、西田政史、穂村弘
(短歌ムック『ねむらない樹』vol.1 2018年 より)