2017年9月1日金曜日

住宅顕信 全俳句集全実像 池畑秀一監修 を読む 15/1111

 1987年に25歳で病のため、短くも激しい人生を閉じた俳人がいた。広く世に知られるようになったのは2002年、精神科医・香山リカ「いつかまた会える―顕信:人生を駆け抜けた詩人」(中央公論新社)がきっかけだ。15年を経過した今年、住宅顕信(すみたくけんしん)を描いた映画「ずぶぬれて石ころ」のクラウドファンディングが成功し制作が進んでいる。
 当書「住宅顕信全俳句集全実像」(小学館 2003年)はその顕信の顕信の全句集である。顕信の死の翌年に発行された句集「未完成」もの281句に加え、未発表の作品も収められている。

彼の作品を幾つか読んでみよう。 

  窓に病人ばかりがたえている冬空
  虫がはりついたまま冬の窓となる

病室と窓から見える光景が世界のすべて。世界と対峙するように、窓の反射に自分の命が見えている。

  坐ることができて昼の雨となる
  車椅子の低い視線が春を見つけた

やっとベッドの上に座って見渡した世界。車椅子からの視線。病を得ると視線のアングルは低くなる。まさに世界を底から見つめているような感じになる。

  曇り空重く話くいちがっている

告げられている病名は本当なのか。苛立ち。

  聞こえない鳥が鳴いているという

病は耳に進んだのだろうか。逃れられない苦しみ。

 当書は顕信の作品と、ルポライター・佐々木ゆりによる彼の生涯のドキュメンタリーが交互に配置され、読者には作品と生涯を重ね合わせて読むように構成されている。一般論としては、作者の人生が作品の前景に出過ぎると、作品の鑑賞を妨げる。だが、顕信の場合は作品群が未完に終わっており、このような補強は必要だろうと思う。実際、作品の切実さは、背景を知らないと理解しがたいかもしれず、彼がたぶん、突き詰めようとしていたであろう「生死」については、取り組む糸口が見えてきた、ぐらいのところで終わっているように思える。

 香山リカさんは顕信に、尾崎豊に通じるものを見ている。確かに顕信の作品は、叫びから生まれてきた。顕信がボロボロになるまで句集を愛読した尾崎放哉の作品も、そうだろう。

俳句は詩が成立する最小単位ではないか、と思う。対象を一点に絞り、動きや形容を一つだけ付け加える。それだけで、ある一瞬の世界を表現してしまう。顕信は、その一瞬、見えた世界に、生きる切実さを乗せた。世界との一期一会、とはそういうものだと思う。だから彼の作品には「切っ先」を感じるのだ。短歌や俳句の作者が鍛えなければならないのは、ちょっと気の利いた表現ではなく、「切っ先」だろう。


「住宅顕信 全俳句集全実像」池畑秀一監修 小学館 2003年