短歌から遠く離れてふりかぶるバックネット直撃の球 (P71 短歌から遠く離れて)
「風通しが悪く感じていた」(あとがき)、と、倉阪さんもおっしゃっている。1980年代前半の短歌シーンだ。文語・定型の短歌ばかりだった。鑑賞はゴテゴテした修飾に阻まれ、さほど面白くもない日常の写生は広く共感を呼ぶとは言い難かった。「風通しのいい短歌を詠む才能豊かな歌人はたくさんいて」(あとがき)という時代は、その後に来た。80年代、詩の才能がある若者は、文語による言語美を徹底的に追求しようとするごく少数の人たちを除いて、短歌を去ってしまったようだ。その中で特に才能のあった一人が、日常語で自由な表現が可能になった短歌の世界に帰ってきた。倉阪鬼一郎「世界の終わり / 始まり」だ。
かなしい色だね蒼天に空色の観覧車ゆるゆると上がり (P6 空色の観覧車)
歌集冒頭の一首は、8、5、5,5,8、という音数。日常語は5音と7音よりも5音と8音の組み合わせの方が韻律を形成しやすいのでは、と思う。七五調、五七調は調子が良く叙情的に響くが、必ずしも現代の日常語の音数と相性が良い訳ではない。日常語による、いろいろな音数の韻律詩が、もっとたくさん作られても良いと思うのだが、そうなっていないのはいかなる事情によるものか。倉阪鬼一郎はもちろん、事情になど迎合しない。音数律を自在に操る。それは定型・非定型などという議論を越えて、生き方そのもののようである。ちなみに、時にそれが定型となると、定型ですら、こんな風にのびのびと力を発揮する。
しなやかな透明のもの還りゆく冬の星座を遠く離れて (P21 鳥籠のない鳥)
さて、倉阪鬼一郎の歌集ともなれば、読者は怪奇、幻想を期待するだろう。確かにそれがモチーフとなっている秀作が多い。(歌集を御覧いただきたく、引用はひかえます)
作風というよりも、世へのアンチテーゼが怪奇、幻想というモチーフとして現れているのだろう、と思う。定型に無理に当てはめないのと同じく、生き方なのだ。迎合せずやっていたら、怪奇小説、幻想小説を書く人生になっていたのでは。作者は原点を確認するために短歌に戻ってきたのかもしれない。
最後に、歌集の帯にも引用されている一首。
生まれる前から麻酔をかけられていたぼくたちはめざめる夜明けの廃墟 (P43 夜明けの廃墟)
長年、生き方の定型に慣らされてきたぼくたちに、目覚めよ、と、メッセージを送っているようだ。
書肆侃侃房 現代歌人シリーズ14 2017年2月